短編小説

5分くらいで読めます なさそうでありそうな話

二丁目のにゃんこ

二丁目のにゃんこが、にゃおんと鳴いた。
 うちを出て、公園に向かう途中の八百屋の前に、招き猫みたいにちょこんと座っている。ビー玉みたいな瞳の、首輪のない細っこい大人の黒ねこだ。二丁目に住んでいるみんなが、このにゃんこを知っている。
 二丁目のにゃんこは立ち止まったぼくを見上げてまたにゃおん、と鳴くと、鶏のささみを放り出して歩き出したぼくの後ろをついてきた。

 「あら、こんにちは」
 ちょっと歩くと、信号機の下で買い物帰りの山田さんと橋本さんに会った。ぼくと一緒に二丁目のにゃんこも、愛想よくあいさつをする。山田さんの後ろから娘のあいこちゃんが、小さな顔を覗かせた。恥ずかしがりで、いつも緊張したように顔を赤くしていて、山田さんのブラウスを掴む柔らかい手が震えている。でも、二丁目のにゃんこがちょっと高い声でにゃおんと鳴くと、まあるく笑った。

 「よっ」坂の下を歩いていると、階段に腰掛けた、ユウくんが片手をあげた。ユウくんは大学生で、歌手を目指している。ぼくと二丁目のにゃんこが隣に座ると、じゃかじゃかとギターを鳴らして歌いだした。
 ユウくんの歌は上手だけれど、よくわからなかった。好きな人に向けて曲を作ってるって言うけれど、それをぼくたちの前で歌ってもあんまり意味がないんじゃないかな、って思う。足がむずむずしてきたけれど、二丁目のにゃんこはぴんと耳を立てて、じっと聴いている。
 歌い終えたユウくんによかったよ、と言って手を振り、ぼくたちは階段を駆け上がった。

 「おそいよ」
 やっと公園につくと、この夏でいちだんと日焼けしたショウが怒った顔で振り向いた。ごめんね、と謝ると二丁目のにゃんこも一緒にしょんぼりとうなだれた。
 いーち、にーい、さーん、ユキちゃんが広場の真ん中で目隠しして、三十秒数える。
 二丁目のにゃんこは、ぼくたちのかくれんぼを木陰になったベンチの上で見守っている。けれどときどき、少し感の鈍いユキちゃんがなかなかオニから抜け出せないときは、にゃあにゃあ鳴いてぼくの隠れ場所を教えてしまうのだ。だからぼくは、二丁目のにゃんこがちょっとだけ嫌いだった。

 町に七つの子のメロディが流れて、かくれんぼはぼくがオニのまま終わった。ぱらぱらと、他の子どもたちもそれぞれの方角へ帰っていく。
 のろのろ走る豆腐屋さんの車とすれ違い、よその家のカレーの匂いに反応してぎゅるるとお腹が鳴る。階段にはもうユウくんはいなくて、野球帽のお兄ちゃんたちがぞろぞろと河原を歩いている。

 シュンヤが信号を右に曲がったら、ふと、だいだい色の夕日に照らされてじゃあねと笑う、十五分前のみんなの顔を思い出して、立ち止まった。そうしたら二丁目のにゃんこが、早く帰ろうと急かすようにぼくの足にすり寄った。

 二丁目のにゃんこと夕方の色や音たちに引っ張られて、うちについた。台所の明かりが灯って、駐車場にお父さんの車が停まっている。
 二丁目のにゃんこを撫でようとしたら、用事があるみたいに急いで丘の方へかけていった。そらがうす青くなり始め、夜が迫ってきている。

 実のところ、二丁目のにゃんこはぼくのおばあちゃんが産まれるずっと昔から生きていたらしい。そして、夜になると二丁目のひとびとの夕方のさみしさをまるごと食べてしまうのだ。
 だからベッドに入って電気を消すとき、七つの子が流れ始めたときにけんかが終わらなかったもやもやも、作り途中の秘密基地をうまく隠しきれなかったときのどきどきも、向かいのやさしいおばあちゃんが車椅子になって散歩から帰ってきたときの胸の痛さも、ぜんぶ忘れて夢を見られるのだ。
 なんでぼくがそんなことを知っているのかっていうと、この前の夜、月明かりに照らされて満腹そうにしている大きな大きな二丁目のにゃんこを、部屋の窓の向こうに見てしまったからだった。

 だからこの先もずっと、二丁目の人々は夕方のさみしさを忘れたままでいる。

クロゼット

 ぎょっとした。
 うちの庭木に、男の子がよじ登っているのだ。
「あぶないわよ」
 慌ててサンダルをつっかけて外に出ると、枝にしがみついたままこちらを振り向いた。夏が明けてすぐにしては色白で、どきっとするほどきれいであどけない顔をしている。羽織っている灰色のパーカーがやけにだぼついていた。
 するすると木から降りたその子の小さな手は、しっかりと秋蝉を掴んでいる。
「逃がしてあげなさい」
「どうして?」
「蝉はね、ずっと土の中で育って、今やっと外に出られたのよ。かと思えば、もうほんの少ししか生きられない。捕まえてしまったら可哀想じゃない」
 小学生でもすらすら言えそうな説明を真面目にすると、意外にもすんなりと手の力を緩めた。秋蝉は、塀を越して慌ただしく飛んでいく。
「そうだったんだ。勝手に庭に入ってごめんなさい。じゃあね」
 男の子は素直に頭を下げて、軽やかに夕方の住宅地を走り抜けていった。

 その三日後、わたしはまたあの男の子を見かけた。
 スーパーのサッカー台の上でねぎを袋に詰めながらふと窓の外を見ると、もとの色が更にくすんだ灰色のパーカーを着たあの子が、道路の向こう側で靴紐を結んでいる。
 買い物袋を提げて店の外に出ると、その姿はなかった。
 数秒、迷ってから開けた通りに出てみると遠くに小さな背中が見えた。わたしはそれを、勘づかれないように追いかけた。坂を下って左へ曲がる。赤信号で見失いかけ、早足で追いつく。一定の距離をとって十分ほど歩いた末に、年季の入ったトタン屋根の二階建てアパートに辿り着いた。
 錆びた階段をかんかんと音を立てて上る男の子が右端から二番目の部屋のドアの奥に消えるのを確かめて、少ししてから、ゆっくりと足音を消してあとに続いた。
 一体何をしているのだろう。でも、ずっと昔につけられたアイロンの跡が、虫が這うみたいにむず痒くて仕方がないのだ。
 ひとつも言い訳にならないけれど、わたしは無責任にこういうところがある。後ろめたくなりつつも、何秒もかけてドアノブを捻った。
 中に入ると、申し訳程度の玄関の先の廊下は短く、すぐにリビングルームと呼べるのか怪しげなドアも暖簾も無い部屋へ続いていた。
 足元に揃えられた小さな靴がさくら色だったことに疑問を持ちながらも、悪い子どもみたいに、部屋を覗いてしまったのだ。

 そこは、わたしが想像していたような有様ではなかった。
 
 八畳間に所狭しと並べられた家具。そのひとつひとつが、アメリカのドールハウスの部屋に備え付けられたようなものだった。白のドット地のベビーピンクの壁紙にぴたりとくっつけたソファの肘掛けはハート型、不釣り合いに大きなダイニングテーブルに、マカロンみたいな色をした小さな椅子たち。壁一面に掛けられたロリータ・ドレス。大げさな装飾のドレッサーに並べられたマニキュアのボトルや香水の瓶などの細かな雑貨まで、まるで部屋一面が、幼い少女が望むようなクロゼットだ。
 その部屋の真ん中に敷かれたハート型のカーペットの上に、女の子が座っている。 
 ちょうどいちご柄のパニエワンピースの袖に手を通し終えたその子は、わたしが買い物袋を落とした音で振り向いた。
 きれいで、あどけない顔をしていた。女の子は、さっき見た男の子のはずだった。わたしを見て、驚いたような、懇願するような表情を向ける。
 わたしは何も言わず、ゆっくりゆっくり近づいた。
「何してるの!」
 突然、ヒステリックな悲鳴を背中に受けた。
 玄関に立っていたのは、ひと目で若いかそうでないか判断のつかない、小柄で薄汚れた灰色のパーカーを着た女だった。
「あなた、いったいだれ。何してるの。出ていってよ!」
 狂ったように叫び散らすが、子どもは母親らしき女に助けを求めない。怯えた目で、わたしの背後を見据えている。
 目がちかちかするピンクに安っぽいレース、きんきん響くヒステリー。甘ったるいバニラの匂い。明るくきらきらした色ばかりのはずなのに漂う空気は重く陰鬱で、異様だった。
 目眩とともに吐き気がこみ上げ、胸焼けがする。  
 このままここに居てはわたしもこの子も死んでしまう、と直感したのだ。わたしは女の子を抱きかかえ、叫び散らす女を押し退けてアパートを飛びだした。
「ミユキを返してよ」
 女はごわごわの髪を振り乱し、まるで女の子みたいな名前を呼びながら迫ってくる。 
 いちご柄のワンピースを着た子どもを抱えて、走って、走った。ほんとうのお人形なんじゃないかってくらい、ふわふわと軽かった。
 女はいちど立ち止まったようだった。その隙に路地裏に入り、人混みに紛れてしまおうと、駅前を目指しす。
 
 そのままずっと走り続けた。しばらくして顔を上げると、すぐ先に駅が見えて、ほっとした。がくんと膝の力が抜ける。足を止めて、肺がねじれたように痛いことに気がついた。ずっと大人しくしていた腕の中の子どもが、心配そうにわたしの顔を覗き込む。
 もう、男の子に戻っていた。わたしはぎこちなく頬を引き上げて、笑い返した。

 わたしも男の子もひどくのどが渇いていたので、駅前のショッピングモールに入り、レストランの席につく。
 メニューを開き、わたしがなんでも頼んでいいと言うと、遠慮がちにオムライスのプレートとオレンジジュースのセットを指さした。スプーンを持った男の子のフリルの袖にケチャップが付きそうで捲りあげるのを手伝うと、腕が折れそうに細くて、わたしは怒りで身体の血の流れが早くなるのを感じた。それでも、瞳をきらきらさせて夢中でスプーンを口に運ぶ姿に安心し、他の感情はじわじわと心から引いていった。
 
 食べ終えて何をしようかと話していると、すれ違うときに時々受ける好奇の視線に苛ついて、子供服のショップに入った。わたしと一緒に選んだ空色のポロシャツとデニムパンツ姿の男の子は爽やかで、同年代の女の子にとってももてそうだな、と思った。
 そのあとにおもちゃ屋で買ったサッカーボールを抱えて、ショッピングモール裏の大きな公園に出た。外は晴れていて、長袖のシャツ一枚に丁度いい気温だった。
 広場まで歩いて、男の子にボールを手渡す。ちょっとの間どうしたらいいのか思い出すようにして、ぎこちなく蹴り上げた。
「そうそう、上手」
 左に移動して止め、ゆっくりと返す。今度はまっすぐに戻ってきた。男の子は数メートル向かいで、満足そうな顔をする。その姿を、無意識のうちに幼い頃のわたしの妄想と重ね合わせていた。
 サッカーボールを蹴り上げる鈍い音、活発な野球少年たち、クローバーを探す女の子。ときどき耳もとを過ぎる風がすうっと涼しく、心地がいい。
 
 わたしは、何がしたいんだろう。何が出来たんだろう。何に固執しているんだろう。わたしは、わたしが、救われたいのだろうか。

「きみはさ、男の子、なんだよね」
わからないことを誤魔化すように男の子に問うと、小さなつま先がボールを止める。
「わからない」
ちょっと悩んだ末に、困ったようにはにかんだ。なんて馬鹿なことを口に出してしまったんだろうと、後悔した。
「でもお母さんは、女の子と暮らしたかったみたい」
 近くのベンチで恋愛話をしていた女の子たちが、野球少年をちらちら見てきゃーきゃーと騒ぎ出した。
「ピンクの服を着るのはべつに嫌いじゃないけど、苦しくて脱いだら怒られるのがいやだな。あと、みんなにばかにされるのが、やだ」
 わたしは、どんな顔をしていたのだろう。男の子はとつぜん、花が咲いたような笑顔をつくった。
「サッカーって、とっても楽しいね」
 
 わたしの子にならない?と言いたかった。名前を変えて、洋服も変えて、毎日サッカーをして、ほんの少しだけがさつな言葉を覚えさせるのだ。蝉だって、逃がすと約束するのならとってきたって構わない。軽々しい言葉を口に出すか、すごくすごく悩んだ。わたしは無責任に、こういうところがある。
 
 空はまだ青いままなのに、タイムリミットと言わんばかりに夕方を知らせるチャイムが響く。子どもたちの大半はそれを無視して、芝生の上を駆け回っている。
 男の子は私に駆け寄り、サッカーボールを手渡した。
「やっと外に出られた。ありがとう」
 とびきりの笑顔を残し、白く小さな手を振って走り去っていく小さな背中は、あまりにも完璧な誰かの子どもだった。
 わたしは結局、何も言えなかったし、笑顔も返せなかった。ただ、しばらくぼうっと立ちすくんでいた。
 そして、思い出したように鳴き出した秋蝉の声に引き戻された途端、あの男の子が愛しくて愛しくて、ぼろぼろと泣き崩れてしまったのだ。